目次
はじめに
はじめまして、私は大垣真由美と申します。
今日は私が44歳の時に体験した、9か月間にわたる婚活についてお話させてください。
そのためにも、最初に私が自分の婚活について語る理由をお伝えしたいと思います。私が婚活というものを始めようと思ったのは、44歳の時。しかも大変お恥ずかしいことに、私はその時男性とお付き合いした経験がありませんでした。ただの一度もです。
私は自身の婚活を通してアラフォーの女性がどれほど結婚が難しい状況の中で婚活をしているのかを身をもって知ることとなりました。私がこの場をお借りしてお伝えしたいのは、アラフォーどころか、40代も半ばで交際経験なしでも婚活のやり方・視点ひとつ変えてみるだけで誰でも結婚するチャンスはあるということなのです。
もちろん単に私だけに通用するような成功体験を語るつもりはありません。むしろ、私のように婚活上の肩書で見るなら最低クラスと言われても仕方のない者にもできるのだから、他の素敵な女性たちにはもっともっとチャンスがあるのではないかと思いました。だから是非そのチャンスをつかんで結婚していただきたいのです。
これが、私が自分の体験をお話したいと思った理由です。少し長くなりますが、最後まで読んでいただけたら幸いです。
幸せだった実家暮らしと突然の母の死
44歳当時、私は実家の一軒家で母と二人暮らしをしていました。父は10年前に他界し、妹と弟はそれぞれ結婚と就職をきっかけに既に家を離れていました。
私は地元の大学を出た後、地元で就職したのでずっと実家で暮らしていました。母と二人っきりの毎日はちょっと退屈ですが、とても平穏でした。こんな楽しく穏やかな毎日がこれからもずっと続いていくのだろうと、私はなんとなくそう思って毎日を過ごしていました。
ある日の朝、いつも早起きの母がなかなか起きてこようとしませんでした。私は朝食の準備が出来たと母を呼びに行きました。母は布団の上で胸を押さえて苦しそうに突っ伏していました。
心配した私が声をかけると、気の強い母は「大丈夫、ちょっと横になればよくなるから。」と繰り返し言いました。でも、どう考えても大丈夫なようには見えませんでした。
急いで救急車を呼んで病院へ連れて行きました。緊急の投薬を受け、詳しい検査に入ろうというところで母の容体は急変し、昏睡状態になりました。そして、そのままその日の昼過ぎに亡くなってしまったのです。
あまりにあっけない母の死でした。妹も弟も母の最期に間に合いませんでした。
私は何の心の準備もできていないままに母と死に別れ、まったくそれを受け入れることがないままに慌ただしく役所への届け出やら葬儀の準備やら、必要な手続きをすすめました。
「あなた、お姉ちゃんでしょ?しっかりしなさい。」幼い頃、母にそうやって躾けられて身についた、きょうだいの一番上としての責任感だけでどうにか私は動いていました。
母の葬儀を終えると、集まった親族たちはそれぞれ解散しました。妹と弟もそれぞれの家へと帰って行きました。
私は広くて古い一軒家に独りポツリと取り残されたのでした。
あんなに元気で毎日活動的だった母は、小さな木箱の中に納まるお骨となってしまいました。もう動くこともなければ、しゃべることもなく、モリモリと何かを食べることもありません。
家の中はシーンと静まり返り、柱時計の秒針がザッザッと音を刻む音だけが聞こえました。
祖父母と両親が健在で家族7人寄り集まって騒がしかった頃の、かつてのこの家からは考えもつかないほどの静けさでした。私は母のお骨の入った木箱を抱いて一晩泣きました。
突如襲ってきた強烈な孤独感
母の死から四十九日を過ぎて、遺骨を父の眠るお墓へと移しました。それまでは、お骨になってさえも母がそばにいてくれたことに小さな安心感がありましたが、もうそれすらもなくなってしまいました。
父方の祖父母が建てた古くて大きな一軒家は、やはり私一人で住むには広すぎました。それでも、生まれた時から慣れ親しんだ、みんなの家です。祖父母と両親と私達きょうだい、総勢7人が笑い合ったりケンカしたりしながら何十年も暮らし続けた大切な家でした。
形式的には私が家を相続しましたが、でも田舎の古びた一軒家のこと、それほどの資産価値があるわけでもなく、妹も弟も「姉さんにまかせる」と言うきりでした。
家を売ってどこかへ引っ越すことも考えましたが、この家を処分してしまうと両親や祖父母との思い出までもが無くなってしまうような気がして、なかなか気が進みませんでした。
その年が暮れようという頃、妹と弟から電話がありました。ふたりとも正月には帰らないということでした。父が亡くなり、老いた母ももはやいないとなれば、それも致し方ないことなのかも知れません。でも、今まで強くつながっていると信じていたきょうだい達すら、母を介してつながっていただけなのかもしれないと思うと、急に彼らの存在を遠いものに感じました。
年の終わりを告げるお寺の鐘が遠くに聞こえると、私は強烈な孤独感に打ちひしがれました。幼い頃、大晦日の夜は家族に囲まれて、嬉しくて楽しくてどうしようもないくらいに私ははしゃいでいました。
でも、もはや大晦日にも正月にも集まる者はだれもいませんでした。私は独りぼっちで他に誰もいない家の中だけで一週間を過ごしました。
もはやこの場を必要としている人は誰もいませんでした。いるのは私と、そして遺影に収められている祖父母と両親だけでした。寂し過ぎてここを出たい、でも出てしまうと別の寂しさが湧いてきて出られない、というおかしな矛盾した考えがぐるぐると頭の中を巡りました。
そんなわけで悶々とした正月の間、私はずっと結婚相談所への入会を検討し始めました。結婚して誰かの元へ嫁ぐことになるのなら、私は罪悪感なくこの家を出られるような気がしたのです。
でも、その決意をすることは、私には大きすぎる壁でした。
結婚相談所で宣告された「市場価値ゼロ」
さきほども申しましたように、私はそれまで男性とお付き合いをした経験が44年間、ただの一度もありませんでした。
そんな私が一から誰かと彼氏彼女の関係になって仲が発展し、やがて結婚に至るなんてことは想像すらできませんでした。
だから、結婚するならもはや最初から結婚相談所でお見合いをしないことには無理だと思いました。でも、一方でこんな私ではお見合いをする男性にも申し訳ないんじゃないかしら、などとも考えたりして、なかなか相談所に入会する決断が出来ませんでした。
私にはこんな時に相談できる人はなかなかいませんでした。気の合った友人たちは皆結婚して子どもを産んでから少し疎遠になっていましたし、仕事関係の付き合いではではこういった結婚話の相談に乗ってくれる人はいませんでした。
ですから、私は藁にもすがる思いでネットで調べたベテランの仲人さんが運営する結婚相談所へ無料お試し相談に行ったのです。
仲人さんは私の境遇に同情してくれましたが、その一方で厳しく私を諭しました。
他の女性たちはもっともっと早くに動いてお相手探しや自分磨きに頑張って結婚相手を見つけているのだということ、私は婚活の実態を知らなすぎるということ、男性とお付き合いしたことがないことは大きなネックになるということ…。厳しいことを言われるだろうな、とは予想していたけれど、実際はそれ以上でした。
特に私にとって衝撃だったのは、女性の場合35歳になったら途端に「婚活市場での価値はゼロ」とみなされるという話でした。
若い女性がどんどん登録してくる婚活市場の中では、男性はどうしても若い女性から選んでお見合いをセッティングしようとします。そういう中で35歳になると、途端にお見合いの申し込み自体がガクッと下がってくるのだそうです。
さすがに自分が「ゼロ」だと宣告されるのはショックでした。しかも、婚活市場での価値がゼロになったまま、10年近くもそれを知らずにのほほんと生きてしまっていたなんて、それを思うと顔から火が出るような恥ずかしさがこみ上げてきました。そして、その後でひどく悲しくなりました。
こんな私でも、職場に出れば慕ってくれる部下が少しはいます。私を信頼してくれるであろう上司もいます。そういうものが全く顧みられることなくゼロと言われると、いままで頑張ってきたことは何だったんだろう、結婚して家庭に入っていい奥さんになることだけが女性の価値なのだろうかと、全身から力が抜けていくように感じました。
もう現実を受け止めるのが辛すぎてそこから逃げ出したくなりました。それでもその相談所に入会したのは、仲人さんが時間をかけて熱心に私の話に耳を傾けてくれて、一緒に頑張ろうと頼もしく言ってくれたからでした。
「あなた、相当な覚悟を持ってかからないと難しいわよ。大変だけど、一緒にがんばりましょ。」
その言葉はその時の私にとって一筋の光明のように思えたのです。
はじめてのお見合いと挫折
仲人さんはお相手選びを手伝ってくれましたが、彼女がピックアップしてくれたのは50代か、60代の男性ばかりでした。奥さんに先立たれて、その後のパートナーを探している人ばかりです。
自分と同年代のもう少し若くて、できれば未婚の方がいいんですけど、と私が遠慮がちに言うと、仲人さんの顔が曇りました。
「この人たちよりも若い未婚男性だと、例えば40代後半とかでもまだ子どもを持つことに一縷の望みをかけてるの。だからあなたよりもかなり若い子を選びたがるのね。だけど、あなたはもう子ども作るとか、そういう感じではないでしょ?」と、そう聞かれました。
結婚して子どもをどうしたいのか、というはっきりとした意見は私にはありませんでした。でも、自分にまだ産む能力が残っている内から完全に子どもをあきらめたくはありませんでした。
だけど、それを私の口から言うことはあまりにも厚かまし過ぎることだと思いました。だから本当のことを言えませんでした。そして仲人さんが勧めてくれた50代の男性とお見合いすることに決めました。
その男性は紳士的でまじめな感じの方でした。私の住んでいる街の隣の街の市役所に長年お勤めの人でした。お食事をして、お互いの身の上についてお話しました。
人として良い方のように思いましたが、それでもその方と結婚するのかと問われると、なんだかよく分からないとしか言いようがありませんでした。どうやってこれで結婚可なのか不可なのかを判断すればよいのか、分かりませんでした。
仲人さんの勧めるままにその後2度ほど会ってお話しましたが、結局先方から交際を終了させていただきたいとの連絡がありました。
それから後も二人の方とお会いしましたが、二人とも最初のお見合いだけで先方から交際終了の連絡がありました。
仲人さんは「相手からお断りされたからってめげてちゃダメよ。10人から断られたって、11人目があなたを『いい』と言ってくれるならそれでOKなのが結婚なんだから。」と励ましてくれましたが、私には仮定の話の11人目まで到達するのさえ難しいように思いました。
私は自分の容姿に関しては不美人とまでは思っておらず、十人並みくらいだと思っていましたし、太らないように気をつけていましたし、ファッションに関してもワンシーズンに一度くらいは雑誌を買って研究するくらいのことはしていました。
それでも年齢には勝つことはできず、肌ツヤや顔色や髪のコシなどにはそれが出てしまいます。失った若さはもう取り戻しようもありません。
私はもう20代30代のようには若くないんだ、婚活ではまったく通用しない存在なんだ、そう思うとこれをいくら繰り返しても結婚に至ることが出来るようには思えず、四人目の方を検討する頃にはもう精神的にへとへとになってしまいました。
仲人さんから強く引き留められたものの、結局二か月ちょっとで相談所は退会してしまいました。
運命を変えた岩熊権造さんとの出会い
相談所を退会したものの、私は結婚をあきらめることが出来ませんでした。でも、これといって具体的な婚活をする気力もなく、ただネットで他の女性たちの婚活ブログを読む毎日でした。
そんな中で目に留まったのがある婚活アドバイザーの話題でした。
その婚活アドバイザーの方は、相談に来たアラフォーの女性の婚活ブロガーさんに対して「親との付き合い方」「仕事への取り組み方」「死ぬことについての考え方」などを話していたそうなのです。
その話をヒントに、婚活ブロガーさんは結婚と仕事との折り合いのつけ方を自分なりに見つけ出し、お相手探しに迷うことがなくなりました。そしてトントン拍子に交際相手が見つかって結婚していったのです。
婚活アドバイザーという肩書からは想像もつかない話題に私は衝撃を受けました。私にとって婚活アドバイザーとは「婚活とはこういう風にやるものだから。」と婚活のノウハウだけを提供する人だと思っていたからです。
私は仲人さんや他の婚活アドバイザーの皆さんとは全く違った何かをその人に感じて、ブログを探して夢中で読み漁りました。無料メルマガも登録しました。
その婚活アドバイザーこそが、後に私を結婚へと導いてくれた岩熊権造さんだったのです。
岩熊さんの書いたものの中で、私が一番気になったのは「アラフォーは20代と同じ婚活をしなくていい。」というものでした。
岩熊さんいわく、今、女性の婚活のノウハウとして浸透しているものは、一言で言えば無難でかわいい女性であることをアピールしてなるべく多くの男性の注目を引き、条件の良い男性の中から結婚したい人を選ぶやり方だ、とのこと。
一方でアラフォーの女性が採るべき道は自分の強みや弱みをよく知ったうえで、最初から性格の面で補完関係になれるような男性を選んで、狙い撃ちして婚活すること。そうすれば、そもそもそう何十人と会う必要がない、と。だからアラフォーの婚活はまず自分をよく知り、表現できることが第一歩だと。
私はこれを読んでハッとしました。
婚活をしていて、今まで誰も私がどんな人なのかを気にしてくれているとは思えなかったし、私自身も自分がどんな人かなんてことは押し出してはいけないのかと無意識のうちに思い、どんどん小さくなっているのに気がつきました。
ひょっとしたら、私もまだ結婚できるかもしれない、そう思うと岩熊さんに私の話を聞いてもらいたい一心で居てもたってもいられなくなりました。
ちょうどその時は岩熊さんが婚活コンサルの受講生を募集し始めたところでした。私は千載一遇のチャンスと思い、すぐに申し込みしました。
実際に岩熊さんと会って、私はこれまでの人生のあらましについて話しました。生まれ育った環境、家族のこと、仕事のこと、両親を亡くした経緯、婚活を始めたきっかけなど、すべてです。
それを聞き終えると岩熊さんはポツリと言いました。
「お母さんが独りになっちゃうからずっと二人暮らししてたでしょ?」
この言葉に私はとても驚きました。妹と弟にさえ隠していた私だけの秘密だったからです。
それだけではありませんでした。
岩熊さんは私が44歳まで変わらぬ同じ暮らしを続けてこられたのは、同じ毎日の繰り返しに飽きない性格の影響だとか、母はおそらく私の真意をわかっていたとか、それでも母が結婚しろとも何とも言わなかったのは、私が天邪鬼で言えば言うほど逆効果になると考えたからじゃないか、といったことを長い時間をかけて話してくれました。
私が話していないことまで岩熊さんの口から次々出てきて、どうしてバレてしまったんだろう、とかそういうことだったのか、という驚きでパニックになりかけました。
でも言われてみれば、どれも腑に落ちることばかりでした。そして私は岩熊さんに会ったその日に色々と見つけられてしまったことで、今までの私の婚活に欠けていたものが見えました。
私は、私を本当の意味で理解してくれる人を探していました。婚活に絶望したのはどうしてもそういう心の奥底を理解し合えるお相手を見つけられないと思ったからです。
岩熊さんにそれを話すと、「そういう結婚だって出来ますよ。」と。年齢とか年収とか、出身大学とか勤務先とか、そういう肩書以外で人を判断できる人になればいいんです、そしてそれは誰にでもできます。と岩熊さんは言いました。
そしてこれこそが、私がずっと聞きたかった言葉でした。
大嫌いだった婚活が一転して楽しくなる
コンサルの初め、岩熊さんから人が持つ8つの心の機能について教わりました。そして人は得意な機能と表裏一体となる苦手な機能を必ず持っていて、強みと弱点を同時に抱えて生きていること、自分の得意な機能以外を使って生きている人を理解していくことが大切だ、ということが段々分かってきました。
岩熊さんからの学びを家族や友人や職場の人に当てはめてみると、それまでの私が見えていなかったものが色々と見えてきたのです。
私がすごい人だと心から尊敬している上司が抱えていそうな弱点とか、私とぶつかることが多かった妹とどうしてそりが合わなかったのかとか、その理由とそれぞれが大切にしているものに気付くようになりました。
44年間生きていて、私は本当に他人のことも自分のことも見えていなかったんだとようやく分かりました。
それまでの私は誰かを”すごい”と思ってしまうと途端にその人を崇拝しまって欠点などまるで見えなかったし、自分の常識と違う行動をする人は”嫌な人”、自分と似たような人なら”いい人”という見方しか出来ていませんでした。
でも、そういうことに気付き始めると毎日が新しい発見の連続で、段々楽しくなってきました。
通いなれた職場のやり慣れた業務でさえも、新しい発見でいっぱいになりました。業務に人が絡んだものはその人の癖や特徴がでます。各人が処理した業務の痕跡からどんな癖の持ち主なのかを見るのが楽しくて仕方なくなりました。
人間理解の基礎を教わると、私は婚活アプリによる婚活を再開し始めました。
岩熊さんから婚活プロフィール指導を受けて、私は苦手だった自分を表現することに挑戦し始めました。岩熊さんの婚活戦略の要点は、やり取りをしたい男性像を初めにしっかりとイメージし、その男性像に合った人だけをピンポイントで呼び寄せるプロフィールを書くことだったからです。
最初は書き慣れず、少し結果を出すのに苦戦したものの、数週間で結果が出始めてやり取りをする男性が一気に増えました。
実際に何人かとお会いしてみると、概ねイメージ通りのキャラクターを持った方ばかりで驚きました。プロフィールひとつでこんなにも特定の傾向を持った男性が集まるなんてまったく想像もしていませんでした。
しかも、以前の私よりもいざ会ってから人と話して読み取れることが大幅に増えたように感じました。人の言葉の裏にはその人の本当の気持ちが隠されていて、出てくる言葉は照れ隠しのためだったり、ちょっぴりカッコつけたいためだったり、人への密かな気遣いだったり思い遣りだったりすることを、私は初めて意識するようになりました。
いつしか私はあれほど大嫌いだった婚活を楽しんでいる自分に気がつきました。そして、そんな風に過ごしていると、婚活で二回、三回と会える人が数人出てきました。そのうちの一人の方は、私も話していてすごく気兼ねなく過ごせる、一番気になる方でした。
その方は私ののんびりし過ぎるところや、ヘンなこだわりをしてしまうところや、よく言葉を言い間違いしてしまうところなどを「かわいい」「面白い」「楽しい」といつも褒めてくれる方でした。
その方と5回目のデートの時、私は交際を申し込まれました。それは私が心から望んでいたことでした。二つ返事でOKしました。
まるで夢みたいな出来事でした。少し前の自分からは想像もできないことでした。私はついに人生で初めての彼氏が出来たのです。
彼のご両親へのあいさつと変転
交際開始以来、私は週末が来ることが楽しみで仕方ありませんでした。人生においてデートというものをしたことがほとんどありませんでしたので、カップルでしか行かないような場所へ行くことがどれもとても新鮮でした。
二か月がたった時、彼から「うちの両親と会ってみない?」と言われました。彼との交際が順調とはいえ、さすがに両親に会うのはためらいました。でも、彼と結婚するなら避けては通れない道です。
次の週末、彼の実家に伺うこととなりました。
彼の両親はどちらもにこやかに私を迎えてくださり、和やかな食事会が始まりました。でも、話題が私の年齢のことに及ぶと、彼のお父さんの様子が一変しました。急に不機嫌な様子で黙り込むようになってしまったのです。
どうやら彼は両親に私の年齢についてまだ話していなかったようでした。それからは彼もかなり動揺し始め、しどろもどろで話をするようになり、ぎくしゃくとした場になってしまいました。
帰り道、私を家まで送ってくれた彼は「今日はうちの親があんな調子でごめんね。今度お詫びに美味いものでも食べにいこ?」とフォローはしてくれましたが、その後は彼の態度までもが一変してしまいました。
それまでは頻繁にLINEで連絡を交わしていたのに、急に「既読」になるまでに時間がかかるようになりました。週末のスケジュールに関してもなかなか出してくれようとしません。
結局、次に会えたのは次の次の週末でした。その日のデートで私は彼から別れを切り出されました。
「あなたは素晴らしい人だと思う。でも、あなたは年齢的にもう子どもが産めるかどうかわからない。僕の両親は孫を持つことを熱望している。とても残念だけれど、この関係を終わりにしたい。」これが彼が別れを告げた理由でした。
私はショックのあまりふらつきながら「ご両親の意見はそうだとしても、あなたの意見はどうなの?」とようやく言葉を発しましたが、彼は返事をすることなくその場から立ち去りました。
それ以来、彼へのLINEが既読になることは二度とありませんでした。
絶望の淵から救ってくれた人たち
事の次第を岩熊さんに報告しました。岩熊さんは長い時間かけて私の話をうんうんと静かに聞いたうえで、「ここまで頑張りましたね。」と労わってくれました。そして話し合った末、少し婚活を休んで気分転換した方がいい、ということになりました。
思えば年明けから6ヶ月もの間、仕事へ行くか、岩熊さんの課題に取り組むか、婚活するかばかりで他には何にもしてきませんでした。
でも、あまりにも気分の落ち込みが激しくて、なかなか休日になにかをするような気分にはなれませんでした。
そんな折、連絡をくれたのは長年通っている地元のテニスサークルのリーダーのNさんでした。
Nさんは「最近どうしてるの?みんな『最近真由美さんこないねぇ』って心配してるよ。」と気遣ってくれました。それで私はようやく重い腰を上げて久々にテニスで汗を流してみようかという気になりました。
私の入っているテニスサークルは定年でリタイアした60代の方が多いサークルです。でも、リーダーのNさんは40代後半で、サークルの中ではかなりな若手です。前のリーダーが引退するときにNさんの人柄を見込んで次期リーダーに指名した経緯があるくらいですから、みんなから慕われていました。
久々にサークルに顔を出すとメンバーの皆さんが歓迎してくれて、とても気持ちよくプレイさせてもらうことが出来ました。ただ無心でボールを追うなんてこと、しばらくしていませんでした。
いつも練習の終わりにはメンバーの皆さんで飲みに行くのですが、私は練習が終わるといつもそこで帰ってしまう人でした。でも、その日はなんだか人と話したくてメンバーの皆さんと飲みに行きました。ほとんどが60代の既婚のおじさまたちです。
私が参加するのが珍しかったからか、メンバーの皆さんから質問攻めにあいました。私は思い切ってこれまでの婚活の経緯と、子どもの件で彼氏に振られてしまった話をしました。Nさんは「そいつはひどい」とすごく同情してくれましたし、別のある人は冷静で真摯なアドバイスをくれましたし、また別の人は私の気が紛れるようにと、面白おかしい話をたくさんしてくれました。
誰も私をからかったり冷やかしたりする人はいませんでした。皆さんとても紳士な良い方でした。今までサークルでさんざんお世話になっていながら、私は皆さんが年下の私にしてくれる気遣いに全く気付かず、当たり前にそれを受け取って別段ありがたいとも思っていませんでした。
一緒に飲みに行って初めてそこに気付いたのです。私は本当に薄っぺらな人間でした。
すごく楽しい時間を過ごせたのが嬉しくて、次の週末もまたサークルへ行きました。前回で人間関係が温まったせいなのか、自分のプレイにちょっとした変化を感じました。
相手がどういう攻め方で来ようとするのか、相手の性格を考えたうえで戦略を読もうとしている自分に気がついたのです。私は中学からテニスをやってきているのに、恥ずかしながらそこまで考えてプレーしたことはありませんでした。
それを岩熊さんに報告すると、「学んだことと実生活が段々つながってきている証拠です」とのことでした。
そういうことが見えてくると、段々サークル内でのメンバー各々が自らに任じている役割みたいなものが見えるようになってきました。もはや、私には毎週末のサークルが楽しくて仕方なくなりました。
ムードメーカー、縁の下の力持ち、テニスのプレイの探究者、様々にいることが分かってきました。そんな中で特に目についたのが、リーダーNさんの運営の見事さです。
年下だからと言ってNさんは他のメンバーの皆さんに物怖じしていろんなものを一人でしょい込むようなことはありませんでした。一人一人の適性や性格を見極めてうまく持ち上げたり励ましたり声をかけたりして、うまく役割をそれぞれのメンバーに割り振りしていました。
Nさんはメンバー全員のテンションや気持ちに目を光らせているんじゃないかという気がしてきました。飲み会の時にそういう気づきをNさんに話すと、「真由美さんはなんか変わったよねぇ。すごく鋭くなった。それに練習してこなかったからプレイの精度はむしろ落ちてるのに、手ごわくなった。」と言って笑いました。
それからNさんは、30代のころにお付き合いしていた婚約者と破局したことを私に話しました。婚約者の女性は東京に住んでいて、Nさんが本社に戻ることを拒否していまの土地に骨を埋める覚悟を決めた時に別れたということでした。
「そんなわけで僕もこんな齢だけど、独身。」と言って苦笑いしました。意外でした。Nさんは既婚者だとばかり思いこんでいた私はびっくりして声を上げてしまいました。
その日、私は初めてNさんから飲み会の後の二人っきりの二次会に誘われました。
それからというもの、土曜日のサークルのあとの日曜日はいつもNさんと一緒にお出かけするようになっていったのです。
思いがけないNさんからの言葉
ある日曜日にNさんと一緒に食事をしていると、いつもはくだけた調子のNさんが急に真面目な顔になって「もしよければ、僕とつきあってください。」と交際を申し込まれました。
私はいつかきっとそうなることを望んでいましたが、それはもう少し先のことになると思っていたから、それは思いがけない嬉しいことでした。
Nさんは私が二つ返事でOKしたことにとても喜んでくれました。
Nさんと私の話題は、いつも人間のことです。あの人は何を大事に生きているんだろうとか、あの芸能人がこういう行動を採った原因はなんだろう、とか。
岩熊さんと出会うまで、私はほとんどそんな話を好んでしたことはありませんでした。でも、その時にはそういう話題こそが私の最大の楽しみでした。そして、その話題でポンポンとラリーが出来るお相手が身近にいることが幸せでした。
Nさんにそれを話すと、「僕もおんなじだよ。ここまでこういう話に付き合ってくれる人、他にはいなかった。」と言ってくれました。
付き合い始めてそれほど間もない内に、私もNさんも結婚を意識するようになりました。それぐらい、お互いが強く魅かれあっているのを感じました。
でも、結婚を意識するたびに頭をよぎるのは子どものことです。果たしてNさんは子どもを欲しいと思っているだろうか、もしそうだとしたら私は子どもを産めるだろうか…。
そのことがとても気になって何度も何度もNさんに聞いてみたいと思いました。でも、元彼のようにNさんを突然失うかもしれないと考えると、怖くて怖くて話を切り出すことが出来ませんでした。
私はNさんのことを思うたびに舞い上がったり落ち込んだりするようになりました。せっかく週末にNさんとデートしていても、ふと子どものことを考えると気持ちが沈んでしまいました。
そんな私の様子を見て、Nさんは心配になったようでした。「なにがあったのか話して。」と強く言われると、もう押さえていたものが我慢できなくなり、私は胸の内をすべて話してしまいました。
まだ二人の間ではっきりと”結婚”の二文字が出ていないうちから、私は勝手に結婚のことを意識し、勝手に子どものことで不安になってしまったのです。話しながら「こんな女嫌われるに違いない。」と思うと途端にどうしようもなく涙が溢れて私はうまく声を出すことができませんでした。
「結婚しよう。」
彼が言ったのはその時でした。
「子どもっていうのは授かりものだよ。子宝に恵まれるかどうか、それは神様にお任せしよう。もし、子どもを授かったなら、それはすごく幸せ。でも、もしそうでなかったとしても僕は君とずっと一緒に居たい。だから、結婚しよう。」
まだお付き合いしてからたった二か月しか経っていませんでした。しかも彼の両親に会ってさえいませんでした。
私がそれを切り出すと「確かにまだ二か月だけど、僕たちはお互いのことをすごくよく知っている。それに、両親は僕がもう結婚しないものだと思ってるよ。孫がもう6人もいるし、僕は三男坊だし、心配いらない。」とNさんは言いました。
本当にいいの?私でいいの?と、私は何度も何度もつっかえながら彼に聞き直しました。涙としゃっくりがこみ上げてうまく話せませんでした。そのたびに彼は「『いいの?』ではなく、ぜひそうして欲しい。」と辛抱強く答えてくれました。
嗚咽で返事もままならず、ただ必死でうんうんうんうんとうなづき続けました。そうしなければ彼がどこかへ行ってしまいそうな気がして、私はただ馬鹿みたいに首を縦に振り続けました。
夢のまた夢
彼のご両親にあいさつをして、結婚の日取りが決まってから岩熊さんに報告しました。あまりのスピード結婚に岩熊さんも驚いたようでした。
年明けに結婚相談所に入会してから9か月が経っていました。あの時、母に先立たれて家の中で孤独におびえて小さく小さくなっていた自分は、もうどこにもいないように思いました。
岩熊さんからの学びは私の生活のあらゆる分野に浸透して、すべてが変わってしまいました。岩熊さんに報告をしながら、私はこの9か月で夢のまた夢みたいに不可能に思えたことが叶ったんだ、と実感がわいてきました。
私がそうやってお礼を言うと、岩熊さんは言いました。
「”夢のまた夢”なんかじゃありませんよ。必然です。運とは違います。この9か月を何度やり直しさせられたって、大垣さんは結婚にたどり着くはずですよ。断言してもいい。大垣さんはそれだけ自分を鍛えてきたじゃないですか。」
短くそれだけを言うと、珍しく岩熊さんは二カッと笑って「ご婚約おめでとうございます。」と言ってくれました。
私の婚活体験はこれでおしまいです。
この手記を書かせていただいたくことになった経緯は、せめてもの恩返しに何か岩熊さんのお役に立ちたいと私から申し出たからです。すると、岩熊さんから「じゃあ、大垣さんのこの9か月の婚活を手記にしませんか?」と提案をいただきました。
私とNさんを結び付けてくれたのは、何といっても人を見る目が養われたことです。今まで人のことを理解しているつもりで何一つ解っていなかった私が、人のことを理解しようとした途端に、新たに私と出会う人たちも私のことを理解してくれるようになったように思います。
それは単に結婚できたという以上の豊かさを私に与えてくれました。
人をどうやって見るか、どうやって人と向き合うのか。それによって婚活は大きく変わると思います。私のようにアラフォーどころか40を大きく過ぎてもなお結婚の夢をあきらめられない女性にとってささやかな一助となれば、と拙い筆を執りました。
岩熊さんや夫の大きな助力があって手直しを繰り返し、ようやく人さまにお見せできる程度の書き物でありますことを、どうかお許しいただければと思います。
ぜひ岩熊さんの執筆するメールマガジンを読んでアラフォーならではの、人間を理解することに力を注ぐ婚活を知り、新しい人生をスタートさせてください。
最後までこれを読んでくださり、本当にありがとうございました。
あなたに、どうか素晴らしい出会いがありますことを。
大垣真由美
追伸:
来年の春には子どもが生まれます。最近、私と一緒に少しお腹が出てきた夫と一緒に「うんと体力をつけなきゃね」と話し合って散歩に励む毎日です。
![]() |